2020.4.12 イースター礼拝メッセージ

「何度でもやり直せる」 マルコの福音書16章1〜8節

メッセンジャー: 渋谷昌史伝道師(練馬バプテスト教会)

***

上福岡バプテスト教会の皆さま、イースターおめでとうございます。私たちの罪の身代わりのために十字架にかかられ、死んで、よみがえられたイエスさまのご栄光を心よりほめたたえます。

今日(4月12日)、私は皆さまと一緒に顔と顔とを合わせてイースターを喜びたかったのですが、それが叶わずとても残念です。新型コロナウイルスの感染者が東京都内では3月25日(水)あたりから急増しました。4月7日(火)には緊急事態宣言が出されましたよね。上福岡教会では、4月6日(日)に臨時役員会が持たれたそうですね。私は12日のご奉仕のことが気になっていたので、ヴィリアフロア恵先生とメールのやり取りをしていました。6日の昼過ぎに、恵先生から「4月いっぱい礼拝をお休みすることになりました」、とお返事をいただきました。大変心苦しい決断だったことでしょう。

そこで何か私にできることはないかと考え、説教を4月8日(水)までに仕上げるので、皆さまに、説教原稿をメールの添付ファイルで、あるいは郵送で送ることができますか、と提案しました。そうしたら、「ぜひ、送ってください」とのお返事をいただけましたので、用意しました。皆さまのお手元に今日の説教、届いているでしょうか? 礼拝堂に集えない寂しさはあります。でも、よみがえりの主をほめたたえたいという思いは、「キリストにあって一つ」ですよね。教会員の皆さまが教会に集い、共に礼拝を捧げているご様子を、そして豊かな賛美が礼拝堂に満ち溢れているご様子を、皆さまも、私も、思い浮かべつつ、主の語りかけに心を傾けていただけましたら幸いです。

さて、よみがえりの主をほめたたえるこの日、今日はマルコの福音書の最後の場面、イエスさまのお墓が空っぽだった場面を見ていきます。説教題は「何度でもやり直せる」としました。共にみことばを味わいましょう。聖書のみことばは新改訳2017を用いています。

1.イエスを失った心

 1節2さて、安息日が終わったので、マグダラのマリとヤコブの母マリとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

今日の聖書箇所には、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメという3人の女性たちが登場します。5節から真っ白な衣をまとった青年も登場します。この青年は御使いでしょうか? イエスの復活の場面ではありますが、話の中心は空っぽのお墓であって、マルコの福音書の結びではイエスさまも弟子たちも登場しません。

それなら、この女性たちはいったいどんな人たちだったのでしょうか? 今日の聖書箇所より前の15章40節で確認できます。15章40節女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた 「小ヤコブとヨセの母マリア」は16章1節にある「ヤコブの母マリア」と同じ人物でしょう。なのでこの女性たちは、実際に、イエスの十字架と死に接していたことになります。見つめることしかできなかったのかもしれないけど、イエスから離れずにいたのです。さらに15章47節を見ると、マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていたとあるので、女性たちはイエスの葬りも目撃していたことになります。

この女性たちがイエスの十字架上の死と葬りだけに接していたかというと、そうではありません。15章41節を見ると、彼女たちは、イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであって、驚くことにのほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいたとあるのです。この3人の女性たちは、イエスが宣教を始められたガリラヤの地からイエスと共にいたのです。私たちはイエスさまのお弟子さんと言うと12弟子と呼ばれる人たちを思い起こすかもしれません。しかし、イエスに従い、仕えていた人の中には大勢の女性たちがいたんですね。しかも、その女性たちは、イエスさまと共にガリラヤから遠路はるばるエルサレムまで一緒にやってきたのです。その間、イエスが何をされてきたか、多くのことをその目で見てきたことでしょう。

ペテロをはじめとする男性の多くの弟子たちのことは、私たちのよく知るところでしょう。彼らの多くもガリラヤでイエスに召され、イエスに従って、エルサレムまでやってきました。しかし女性たちと異なるのは、男性の弟子たちはユダの裏切りでもってイエスが捕らえられたあと、イエスを見捨てて逃げてしまったことです。「自分たちのいのちが危ない」と感じた彼らは、イエスから離れていってしまったのです。ペテロは遠くからイエスのあとを追って、大祭司の家の庭に入っていきます。しかし、その家の召使の女から「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね」(14章67節)と問われると、イエスさまの預言通り、ペテロはイエスのことを三度「知らない」と言ったのです。14章72節を見ますと、テロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れたとあります。ペテロをはじめとする男性の弟子たちは、このあとに続く、イエスが十字架にかけられ、死なれたところを目撃していないのです。

結局のところ、イエスの宣教の初めからイエスにつき従い、イエスの十字架上の死と墓への葬りを目撃したのは、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメといった女性たちだったことがわかります。もちろん彼女たちは最後の晩餐の場面にはいなかったでしょうが・・・。

福音書を読んでいて思うことは、当時の社会で人間扱いされていなかった女性や子どもたち、そして病を患っていた人たちに対し、イエスがどれほど深い愛を示し、寄り添われ、大切にされてきたか、ということです。イエスに出会い、イエスに愛され、イエスが身をもって示された「神と人とを愛し、互いに仕え合う生き方」がどれほど素晴らしいものなのか? 女性たちはイエスの言動にふれるたびに、自分の心が変えられるような思いを感じたことでしょう。イエスの愛で心が満たされ、イエスの愛にならって隣人に仕えること。そして、「与えること」でもって、ますます心が豊かにされていくことを体験していったことでしょう。イエスのそばにいると、心あたたまるような気持になる。女性たちは、ずっとイエスさまのそばにいたかったから、イエスさまのあとについて行ったのでしょう。

しかし、そのイエスさまが目の前で殺されてしまったのです。一番大事なものを目の前で失った悲しみ、そして痛み。それまでイエスの愛で満たされていた心。

そこに、ぽかんと穴が開いてしまったような感じでしょうか? イエスを失った心はまるで墓のようです。墓のような暗くて寂しい状態の女性たちの心に、十字架にかかって死なれたイエスは、まさに「思い出」として閉じ込められようとされていたのです。人生のすべてであったイエスを失った悲しみを埋めるものなど存在しません。せめて、素敵な「思い出」、大切な「思い出」としてイエスさまとの出来事を心の中に留めておこうとしたのでしょう。

私たちは過去の「思い出」だけで生きていける存在でしょうか? できませんよね。このとき3人の女性たちは、「これから先、何に希望をもって生きていったら良いのだろうか?」という問題を突き付けられたことでしょう。そのような思いを抱えた女性たちにとって、自分たちにできる最後のご奉仕が、イエスのご遺体に香油を塗りに行くことだったのです。気にかかることと言えば、墓の入り口をふさぐ大きな石です。大人の男性3人でやっと動かせるような石で墓の入り口はふさがれているのです。その石は女性の力では動かせそうにありません。彼女たちが目撃した「死んで葬られたイエス」は、この時、「まさに」女性たちの心の中に「思い出」として葬られようとしています。そして3節にあるように、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」という現実問題に心が奪われるのです。ところがどうでしょう? このあと物語は思わぬ展開へと進むのです。

イエスを愛し続ける者に届けられる知らせ

 4節から7節ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」

 女性たちは驚いたことでしょう。気にかけていた墓の入り口の石が転がしてあったのですから。墓の中に入ると、さらに驚くことに、そこで真っ白な衣をまとった青年に出会い、声をかけられるのです。さらにさらに驚くことに、女性たちは、初めて会った御使いから、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう(6と心のうちを知られていただけでなく、信じがたいお言葉を耳にするのです。「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です」(6という、およそ人間には想像できない衝撃告白を! 「驚くことはありません」(6と御使いに言われても、驚きますよね。人間のこの世の常識からすると、死者がよみがえるなんて、あり得ないことです。しかし、これは神のみわざです。神のみわざ、神さまがなさることは、人間の想像をはるかに越えます。神さまが私たちの人生の中で働かれたという「畏れのようなもの」を感じさせる出来事が、神を信じる者に、イエスを愛し続ける者には「実際に」起こるのです。

先ほど、私は今日登場する3人の女性たちが、ずっとイエスさまのそばにいたことをお話しました。ガリラヤにおけるイエスの宣教のはじめからイエスの葬りまで、ずっと一緒だった女性たちに「イエスのよみがえり」は真っ先に告げられたのです。イエスは「思い出」として、お墓のような寂しくて暗い「女性たちの心の中」に留まるのではなく、よみがえられたのです。考えてもみて下さい。私たちは、私たちの罪をその身に負って死なれたイエスがよみがえられたことを信じることによって、今、希望をもってキリストと共に生きることがゆるされているのではないでしょうか? イエスがよみがえらなかったとしたら、何を希望に生きればよいのでしょうか? 皆さまのここ上福岡バプテスト教会もそうですし、私たちが属するプロテスタント教会では、「十字架につけられたイエス」ではなく、「よみがえりの主」を象徴する十字架が掲げられているではありませんか?

私は、音楽の世界で生きていくという夢を32歳の時に失い、何を希望に生きればよいのかわからずに苦しんでいた35歳の時に、よみがえりの主に出会いました。生きていながら死んでいるかのように思えた私の心に、再び生きる希望が芽生えたのは、イエスが私の心に触れてくださったことによります。イエスと共に歩むようになってからは、「あり得ない」と思えることを体験し続けるさなかにおります。仕事をしながら神学校で学べる道が開かれたこと。のちに練馬教会の皆さまの祈りと支えによって仕事を辞め、学びに専念できるようになったこと。不仲だった父親との和解に結婚。「復活の主」に出会い、神さまが自分にこのような人生を用意して下さっていたかと思うと「神への畏れ」を感じます。恐怖を感じるという意味ではなく、自分の価値観ではなく、聖書の神さまの価値観の中で生きられることによって味わうことがゆるされている神の恵みや祝福とでも言えましょうか? 私の想像をはるかに越えた体験へと神さまは導かれます。イエスさまと共に歩んでいると、私の心は変えられ、私は新しい自分を発見するのです。皆さんはいかがでしょう? イエスと共に歩んでいると、自分の心が変えられ、新しい自分を見つけることがあると思います。そのような体験を、是非、皆さん、分かち合っていただけたら、と思います。

でもですね、皆さん、私自身「いつでも神さまと共に歩むことができたか?」と問われると、決してそうではありませんでした。神学校で学んでいた時に、神さまから心が離れ、自分の力で何もかもしようとして、もがいていたこともありました。こういう時は何をやってもダメで、とても苦しかったです。しかし、この苦しい経験を通して、神さまに立ち返り、イエスさまは一度つかんだ私の手を絶対に離さないお方なんだな、ということを実感しました。皆さんも、イエスさまから離れては立ち返るということ、イエスさまから離れては「悔い改める」という経験をしてきているでしょう。その歩みこそ信仰生活だと言えるでしょうね。そのような経験は、7節にある、御使いが女性たちに言われた、「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と」、というみことばからも明らかでしょう。 

先に話しましたが、ペテロはイエスのことを三度「知らない」と言って裏切ってしまったあと、イエスから離れてしまいました。ペテロは、イエスのことを否認してしまったときに、イエスが言われたことを思い出して泣き崩れてしまいましたよね。自分の弱さを突き付けられたことでしょう。しかもこのあと、イエスは十字架にかかられ、死んでしまったわけですから、ペテロはイエスに謝る機会すら失ってしまったのです。これほど辛く悲しいことはなかなかないでしょう。しかし、このペテロに対し、よみがえりのイエスはご自分から会うつもりでいたのです。先の3人の女性たちにガリラヤの地でペテロと会おうとしていることを伝えるのです。女性たちは、「イエスがよみがえられた」という驚くべきニュースを弟子たちに伝える使命を託されます。イエスが死んだままだとしたら再会などあり得ません。しかし、イエスの復活は「再会」を可能にするのです。

3「恐ろしかったからである」という体験

最後に8節彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

マルコの福音書のもともとのストーリーは16章8節までで、これに続く部分は、あとの時代につけ加えられたと考えられております。マルコの福音書の結びの言葉が「恐ろしかったからである」では、何とも変な終わり方だと考えた人が大勢おられたのでしょう。しかし、「恐ろしかったからである」という結びにあるように、人知を越えた神のわざに出くわした私たちが、神に対する「恐れ(畏れ)」を抱かないことがあるでしょうか? 

かつて生きる意味を見失っていた私が、イエスに出会い、この私が「神のご計画」の中にあると知ったとき、恐れ(畏れ)と喜びが入り混じったような不思議な感覚に襲われたことがあります。皆さんも、畏れを感じるような神のみわざに出会い、ビックリするような体験を重ねていることでしょう。自分という人間の狭い価値観から離れ、聖書の神の価値観でもって物事を考えられるようになると、今まで生きてきた私たちの世界の中に、創造主なる神さまが創られた世界の奥深さを見いだします。「祈り」でもって「神のみこころ」を求め、行動へと移せるようになると「心」が変えられ続けますので、日々、新しくされるという感覚も味わいます。「イエスさまならどうされるだろうか?」と考えてから動けるようにもなります。「あり得ない」と思うような出来事さえ、キリストと共に歩んでいれば、「あり得ることかも」と受け留められるようになります。古い自分をキリストと共に十字架につけ、新しく造られた者として、聖書の価値観、神さまの価値観でもってこの世を生きる。あり得ないことがこの身に起きているではありませんか? それが、この地上で「神の国」を生きるということです。そこは、十字架で死なれ、墓に葬られ、よみがえられたイエスを信じることによって、目の前に広がる世界です。人生の主人公は自分ではなく「神さま」であられるなんて、「畏れ」を感じさせることではありませんか?

マルコの福音書は、福音書の中でも短く、ストーリー展開が速いため、求道中の方によく進められる物語の一つです。神さまを信じる前には「こんなことあり得るのだろか?」と感じながら読み進めるのが普通でしょう。読み進めていく中で、「神さまと離れていることが罪なんだな」「その罪を私たち人間はどうすることもできないからイエスが身代わりとなって私のために死なれたんだな」「再び私たち人間が神と共に生きられる道を回復させるためにイエスは死なれ、よみがえられたんだな」ということが少しずつわかってきます。わかってくると、それまでただの字ずらだと思って読んでいた聖書が、実は、ここにいのちが宿る「神のことば」だということに気づかされます。聖書を通して私たちは神に出会うのです。驚くことばかりで神に対する「畏れ」を抱くことでしょう。そのような神に出会った時の「畏れ」のようなものを心に宿して、マルコの福音書の冒頭に戻ると、「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」(1というみことばで始まる奥深さに気づかされることでしょう。

私たちがイエスさまに出会った場所は人それぞれ違うでしょう。しかし、その場所は誰にとっても「心のガリラヤ」と言える場だと私は思います。そこは、復活の主が何度でも「あなたに会おう」と言って下さる場所です。よみがえりのイエスは、かつて弟子たちや女性たちを召したガリラヤの地で、再び、会おうとされます。イエスがよみがえられたから、イエスとの再会が可能となり、ペテロをはじめとする弟子たちも、そして私たちも、何度でも、神に立ち返り、何度でもやり直せることを知るのです。バプテスマはスタートラインであり、神と共に歩む人生に終わりはありません。これからも、神への「畏れ」を味わいつつ、神の子、イエス・キリストが私たちにもたらして下さった「福音」、死んだ神ではなく、生ける神がいつまでも私たちと共におられ、私たちの歩みを確かにしてくださる恵みを感じながら、イースターのこの日を共に祝い、喜びましょう。

(お祈りします) 愛する神さま。あなたの素晴らしいお名前をほめたたえます。上福岡教会の兄弟姉妹の皆さまも、私も、それぞれ離れ離れではありますが、同じみことばを通して同じ主をほめたたえることのできる幸いを覚えます。どうか主よ、新型コロナウイルスの感染拡大が広がらないよう、あなたがお造りになられたこの世界を顧みてください。憐れんでください。上福岡バプテスト教会の皆さまお一人おひとりの健康と霊性を主が支えてくださいますように。何よりも、みことばを通して私たちの心を養い、強めてくださいますように。よみがえりの主イエス・キリストのお名前で、御前にお捧げします。アーメン。

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